WBO世界バンタム級王者の中谷潤人選手は、現在、世界戦3連続KO勝ちと、日本人ボクサーのなかで“群を抜く存在感”を示しています。
そんな中谷潤人選手が歩んできたボクシング人生には、並外れた努力と強い覚悟がありました。
特に注目されるのは、彼が高校に進学せず、単身でアメリカに渡った決断です。
なぜ中谷選手は普通の進路を選ばず、14歳という若さでアメリカに留学を決めたのでしょうか。
今回は、中谷潤人選手の学歴と経歴にスポットを当て、彼の人生における重要な選択や、その背景にある数々のエピソードを深掘りしていきます。
幼少期からボクシングに打ち込んだ彼の成長過程や、家族の支え、そしてアメリカ留学に至るまでのストーリーは、多くのファンを惹きつけることでしょう。
この記事を通じて、中谷潤人選手の成功の秘訣や、その信念の強さが明らかになるので、ぜひ最後までお楽しみください。
Contents
中谷潤人のプロフィール
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まずは、中谷潤人選手のプロフィールを見ていきましょう。
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中谷潤人の学歴
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ここでは、中谷潤人選手の学歴を紹介していきます。
高校には進学せずに、アメリカ留学を決断した中谷潤人選手の学生生活は、義務教育の9年間のみです。
幼少期から格闘技漬けの毎日を送った、中谷潤人選手の学生時代を見ていきましょう。
小学校時代
中谷潤人選手が通った小学校は公表されていませんが、中学校は「東員町立東員第二中学校」だったため、同校の学校区内にある笹尾西小学校、笹尾東小学校、城山小学校のいずれかに通っていた可能性が高そうです。
両親が飲食店を営む家庭環境で育った中谷潤人選手は、小学校から帰ると裏口から階段で2階の居間に上がらされ、弟と二人でゲームをしながら両親の仕事が終わるのを待つ日々を過ごします。
「兄弟でしていることといえば、ゲームをするか、5時からのディズニー・チャンネルを見るか、くらいでしたね。たまに映像がうまく映らなくて、そろっと下に“助け”を求めにいくんですけれど、両親はおもてに立ってお客さんを迎えているもので、声をかけるタイミングをさがすんです」
引用:The Boxers
画像引用元:スポーツささえびと(左:弟・龍人さん、右:中谷潤人選手)
お店の開店当初は、ゆっくり飲みたいというお客さんの要望に応え、二人の息子を仕事場に入れなかったという父親の澄人さん。
しかしある日の夜、ゲーム機を持ったまま眠る息子たちの姿を目にしたとき、「息子たちに寂しい思いをさせてしまっている」と、自分の仕事に対する考えを悔いたそうです。
それからは、常連客が座るカウンターの、左端の席が兄弟の定位置となり、そこから数々の“ご縁”が生まれました。
小学校3年生のときに中谷潤人選手が極真空手を習い始めたのも、お店のお客さんだった極真の館長さんの勧めもあったからだといいます。
さらに、極真空手の試合で一度も勝てなかった中谷潤人選手に「体重ごとに階級があるボクシングを試したらどうだ」と提案したのも、お店に通う常連客でした。
そして小学校6年生の夏、元東洋太平洋スーパーバンタム級王者・石井広三さんが営むジムで一日体験を行い、これがきっかけでボクシングに深く興味を持つようになりました。
中学校時代
中谷潤人選手が通ったのは、地元三重県にある東員町立東員第二中学校です。
中学入学と同時に石井広三会長が営む「KOZOジム」に通い始めた中谷潤人選手は、月曜から土曜まで一日も休むことなくトレーニングに励みます。
朝は学校に行く前に走り、学校から帰宅後、電車に乗って夕方5時にジムに行く。
ジムでの1時間半のトレーニングを終えて帰宅すると、その日教わったことを納得いくまで復習する。
これが、中谷潤人選手の日常でした。
画像引用元:中日新聞(右:中谷潤人選手)
中学2年になった2011年夏、後楽園ホールで行われた大会に初めて出場した中谷潤人選手は32.5kg級で優勝を飾ります。
この大会での優勝が地域の新聞にも掲載されたことで、学校内でも“ボクサー中谷”が浸透。
もうこの頃には高校に行かないことを決めていたこともあり、学校の先生からは「宿題やらなくていいよ」と、宿題免除を言い渡されていたようです。
また、進路指導の面談では、担任の先生から「ボクシング頑張って」と、中谷潤人選手の決断を応援する言葉をかけてもらっていました。
そして、家族や学校の先生など、多くの人たちの応援を受けた中谷潤人選手は、中学卒業後、ボクシング留学のため単身アメリカへと旅立ったのです。
中谷潤人がボクシングを始めたきっかけは?
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三重県東員町出身の中谷潤人選手は「礼儀を身につけてほしい」という両親の願いもあり、小学3年生から近所にある極真空手の道場に通い始めます。
しかし、当時の中谷潤人選手は体が小さかったこともあり、一度も試合に勝つことができませんでした。
そんな中谷潤人選手がボクシングに転向したのは小学校6年生の時。両親が営むお好み焼き屋の常連客から「体重ごとに階級があるボクシングがいい」と勧められたことがきっかけでした。
「階級制のボクシングを試したらどうだろう」。空手で勝てないという話を聞いていたお客さんにある日、そう提案された。近隣の桑名市でジムを営む石井広三会長の知り合いであるという。ボクシングか……。格闘技は総合もボクシングもよく見ていて、ライトを浴びて戦う姿は純粋にかっこいいと感じていた。小学6年生の夏、「一日体験」を受けてみることにした。
引用:The Boxers
そして、元東洋太平洋スーパーバンタム級王者・石井広三さんが営むKOZOジムで一日体験を経験した中谷潤人選手。ボクシングの魅力に引き込まれるのは、一日で十分でした。
中谷潤人選手はその日のうちに「ボクシングをやりたい」と、父親に相談し、中学校入学と同時にKOZOジムに通い始めることとなるのです。
高校に進学せずアメリカに単身留学した理由は?
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「世界チャンピオンになるぞ」
中谷潤人選手が通ったKOZOジムの会長石井広三さんは、練習を終えてジムを出る時、毎日欠かさずこの言葉を投げかけていました。
中谷潤人選手は、そんな石井会長の言葉に「なります」と答え続けます。
しかし、2012年7月5日。石井会長は、不慮の交通事故で突然この世を去ったのです。
世界チャンピオンになると誓った石井会長の死に、当時中学生だった中谷潤人選手は大きなショックを受けました。
「息子たちにとって、身近な人が亡くなったのは初めてでしたから、その落ち込みようは物凄かったです。龍人もかなりショックを受けていましたが、潤人は1週間、一言も言葉を発しなかったんですよ。で、最初に口を突いて出たのが『どうしたら、この哀しみが無くなるんだ?』というものでした」(父・澄人さん)
引用:現代ビジネス
熱心に指導してくれた石井会長との「世界チャンピオンになるぞ」という約束。
その約束を守るためにどうすればいいかと考え抜いた中谷潤人選手は、高校には進学せずボクシングをすることを決意します。
そして、中谷潤人選手が14歳のとき、父・澄人さんに「アメリカに行かせてくれ」と懇願したのです。
「潤人が中学3年の夏、確か8月でした。『ボクシングで世界チャンピオンになりたい。それには高校に進学する必要性を感じない。アメリカに行かせてくれ』と言ってきたんです」(父・澄人さん)
引用:現代ビジネス
父・澄人さんは「高校日本一になってからでも遅くないんじゃないか?」と返答するも、中谷潤人選手は譲りません。
その後も家族との話し合いは何度も重ねられましたが、最後は中谷潤人選手の“覚悟”と“決意”が尊重されるかたちとなり、15歳での単身アメリカ留学がスタートしました。
中谷潤人はアメリカでどんな生活を送っていたのか?
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中谷潤人選手のアメリカでの生活を、以下の4つの項目に分けて紹介していきます。
- アメリカでの留学期間
- アメリカでの食事や生活
- アメリカでの所属ジム
- アメリカでの戦績
中谷潤人選手のアメリカでのエピソードも楽しみながらご覧ください。
どれぐらいの期間留学していたのか?
中谷潤人選手が留学していた期間は、およそ1年ほど。
就労ビザが取得できないため、3ヶ月ごとに一時帰国し、再渡米する。これを3度繰り返しました。
つまり、アメリカに留学していた実質の日数は約270日ということになります。
画像引用元:Number Web
中谷潤人選手が留学先に選んだのは、アメリカ・ロサンゼルス。
渡米後まもなく、名匠ルディ・ヘルナンデス・トレーナーに出会った中谷潤人選手は、住み込みでボクシングに励むようになります。
また、ルディ・ヘルナンデスの“片腕”でもある日本人トレーナー岡部大介さんから指導を受け始めたのもこの頃です。
90日間のハードな合宿を3度重ねたアメリカ留学を終えた後、岡部トレーナーの縁で「M.Tジム(神奈川県相模原市)」への所属が決まり、ボクシングの拠点を日本へと移していくこととなりました。
アメリカでの食事や生活は?
中谷潤人選手のアメリカでの生活はボクシング漬けの毎日でした。
毎朝ロードワークを済ませて、ジムへ向かう。午前、午後の2部トレーニングが組まれており、スパーリングを中心としたトレーニングが繰り返されます。
「午前も午後もスパーでした。朝、走って、ジム行って。みんな一緒に食べるお昼ご飯の時間が長いんで、食べ終えて、家に戻って1時間くらいだけ休んだら、またジムの時間です。あの当時、今よりもスパーしていましたね。こんなにやってていいのかな? って思っちゃうくらい。ほぼ毎日。ジムに行って、相手がいたら、よし、やるぞ、みたいな。だから、道具も、気持ちも、いつでもそのつもりでいました」
引用:The Boxers
ジムワークを終えて帰宅すると、エネルギーはほとんど残っていませんでした。
中谷潤人選手は「(疲れ切っていて)住み込みで暮らしていた部屋の記憶がほとんど残ってない」と、当時を振り返っています。
「それくらい毎日疲れ切っていたというか…そこは寝るだけのところ。もう気を失うように眠るだけでした。でも、それが楽しかったんです。素直にボクシングが好きで、楽しくて、これだったら人生を捧げられると思ったものが、僕にとってはボクシングだったので」
引用:The Boxers
また、留学中の食事はロサンゼルスでの住み込み先で用意されており、中谷潤人選手はアメリカの食に抵抗はありませんでした。
それでも、ときどき日本食が恋しくなったときには、岡部トレーナーの自宅で日本食をご馳走になることがあったようです。
ちなみに現在は、中谷潤人選手の専属マネージャーでもある、弟・龍人さんが、アメリカでのトレーニングにも帯同し、現地で食材の買い出しから、食事の提供までを行っています。
画像引用元:スポーツささえびと
アメリカでの所属ジムは?
中谷潤人選手は、師のルディ・エルナンデス・トレーナーが拠点をおく、アメリカ・ロサンゼルスの「Knockouts Boxingジム」でトレーニングを積んできました。
中谷潤人選手はこのジムで、いろんな国籍のボクサー、いろんなタイプのボクサーと拳を交えることとなります。
なかには反則スレスレのパンチを打ってくる選手もいれば、ダーティーなテクニックを駆使してくる選手もいる。そんな選手とのスパーリングを数多くこなすことで、中谷潤人選手の持ち味である“対応力”が磨かれていきました。
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中谷潤人選手は、世界王者となった今でも、試合前のロサンゼルス合宿が恒例行事。
恩師ルディ・エルナンデストレーナーのもと、スパーリングと全力を出し切るシャドーボクシングを日替わりでこなし、1ヶ月以上に及び試合前の追い込みをかけているようです。
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アメリカでの恩師、ルディ・エルナンデス・トレーナーは、中谷潤人選手に最高の賛辞を送っています。
「ナカタニは今まで会った中で最高の選手。ボクシングに向かう姿勢も素晴らしい。今までで最高の弟子だ。何事も疑問を持たず、まずはやりながら覚える。それが素晴らしい」(ルディ・エルナンデス)
引用:THE ANSWER
アメリカでの戦績は?
中谷潤人選手のアマチュアでの戦績は、日米通算で14勝2敗となっています。
アメリカへ渡って最初の合宿では、元WBC世界バンタム級王者・薬師寺保栄らを育てた名伯楽マック・クリハラ氏からマンツーマン指導を受けた中谷潤人選手。
合宿の最終週にはアマチュアのワンマッチに出場し、ボクシング人生初のベルトを手にしています。
「黒と赤のベルトなんですけど。日本の大会ではメダルで、ベルトはないので、嬉しかったですね。自信にもなりました」
引用:The Boxers
その後、アメリカで着々と実力をつけ、プロ転向を見据えていた中谷潤人選手でしたが、アマチュア最終戦として出場した大会で待っていたのは、屈辱の判定負けでした。
その夜、久しぶりに父親に電話した中谷潤人選手は「負けました」と、一言振り絞り、電話越しに涙したといいます。
どう声を掛けたらいいか分からなかったという父・澄人さんですが、「悔しいんやったら、次は涙を流さんようにもっと頑張れ」と精一杯の激励の言葉を贈りました。
画像引用元:ANCHORAGE
「もう負けたくない」
アメリカでの敗戦後の誓いを胸に、中谷潤人選手は日本でプロデビューを果たします。
そして2024年2月、中谷潤人選手は“無敗”での3階級制覇を成し遂げるのです。
中谷潤人のボクシング経歴
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最後に、中谷潤人選手のボクシング経歴を見ていきましょう。
1998年1月2日生まれ、三重県東員町育ち。
小学3年生から極真空手を始め、小学6年生の時にボクシングに転向。中学1年から桑名市にあるKOZOジムに入門します。
中学卒業後はアメリカに単身留学し、元世界王者・畑山隆則のトレーナーを務めたルディ・エルナンデス氏と岡部大介氏から指導を受けました。
アメリカから帰国後、16歳の時に神奈川県相模原市にあるM.Tジムに入門し、2015年4月にプロデビューを果たします。
プロ入り後の主な戦績と獲得タイトルは以下の通りです。
年代 | 階級 | 戦績・タイトル |
2015年4月 | ミニマム級 | ・デビュー戦1回TKO勝ちで初白星 |
2016年12月 | フライ級 | ・全日本フライ級新人王獲得 |
2017年8月 | フライ級 | ・初代日本フライ級ユース王座獲得 |
2019年2月 | フライ級 | ・日本フライ級王座獲得 |
2020年11月 | フライ級 | ・WBO世界フライ級王座獲得 |
2023年5月 | スーパーフライ級 | ・WBO世界スーパーフライ級王座獲得 |
2024年2月 | バンタム級 | ・WBC世界バンタム級王座獲得 |
2024年2月には、井上尚弥選手、田中恒成選手に続き、史上3人目の「無敗での3階級制覇」を達成。
2015年のプロデビュー以降、29戦全勝22KOと圧倒的な強さを見せています。
尚、米国で最も伝統のあるボクシング専門メディア「ザ・リング(THE RING)」が発表するパウンド・フォー・パウンド(全階級最強ランキング)の最新ランキング(2024年10月付)では9位に位置しており、世界的な評価も高まってきています。
まとめ
今回は、中谷潤人選手の学歴と経歴を深く掘り下げてきました。
この記事のまとめは以下の通りです。
- 小学生時代:通っていた小学校は非公開 / 小学3年生から極真空手、小学6年生からボクシングを始める
- 中学生時代:東員町立東員第二中学校に通う / 中学2年生の時にボクシング全国大会で優勝 / 中学卒業後、単身アメリカでのボクシング留学へと旅立つ
- ボクシングを始めたきっかけ:極真空手の試合で一度も勝てなかった時、両親が営む飲食店の常連客からボクシングを勧められた
- アメリカに単身留学した理由:急死したKOZOジムの石井会長と交わした「世界チャンピオンになる」という約束を果たすため
- アメリカ留学の期間:約270日(3ヶ月ごとに帰国と渡米を繰り返していた)
- アメリカでの生活や食事:毎日、朝から晩までボクシング漬けの暮らし / 日本食が恋しくなった時は岡部コーチの自宅でご馳走になっていた
- アメリカでの所属ジム:アメリカ・ロサンゼルスにある「Knockouts Boxingジム」
- アメリカでの戦績:アマチュア日米通算14勝2敗 / ボクシング人生初のベルトを獲得した
- 獲得タイトル:2016全日本フライ級新人王 / 初代日本フライ級ユース王座 / 2018年度日本フライ級王座 / WBO世界フライ級王座 / WBO世界スーパーフライ級王座 / WBC世界バンタム級王座
中谷潤人選手は、幼少期から多くの人たちとの“ご縁”に支えられながら、ボクシング人生を歩んできました。
そのご恩を結果で返し続ける中谷潤人選手のファイトスタイルは、今後も多くのボクシングファンを魅了し続けるでしょう。